米処と言われる会津。
農家さんは雪解け後に田を起こし、水を動かし、稲を植える。
秋に実る稲穂はまるで黄金のじゅうたんのように会津盆地を埋め尽くします。
会津盆地を中心に広い会津で米作りをしていますが
今回は会津若松市の農家さんをピックアップしました。

「コシで上手い米を作ろう」がスタート。
今では化学肥料半分が当たり前の栽培に。

ベテラン米農家

奈良橋 渉 さん (65)

北会津銘柄部会の部会長の奈良橋さんは、30年以上もコシヒカリを作り続けている米農家さん。
「昭和58年に始まった基盤整備の前は、田んぼの横の小川で小魚とりをするのが楽しみでした。」と、昔を思い出して笑顔を見せてくださいました。
会津でコシヒカリを本格的に作り始めたのは、その基盤整備が進んだ頃から。
「コシヒカリは作りやすいと言う。だったらそのコシでどこよりも美味い米を作ろう。」と生産部会を発足。
農家同士が教え合いながら成長してきた、といいます。

奈良橋さんの田んぼは、会津盆地の南に位置する清水が出ている「馬越(まこし)」が水源。
そして肥沃な大地である会津盆地のど真ん中。
北会津の生産者の多くが同じ環境の中で米を作り、日々の切磋琢磨が全国に名だたる米どころに繋がったのです。
そして仲間たちとチャレンジを始めたのが減農薬栽培。
今では県が示す化学肥料使用量の半分しか使わないことを当たり前の基準とするなど、意識も向上。

「会津の米は昔から美味いと言われてきました。環境のおかげだけでなく、農家の努力も大きい。最近では会津若松市も食味コンクールを行うなど、本気になってきました。これからが楽しみ。」
奈良橋さんのようなやる気のあるベテラン農家さんがいるおかげで、会津の米が光り続けているのです。

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「オリジナルラベルのお米も販売したい」と熱く語る

米処会津を守るために
若手農家ができること。

若手米農家

渡部 明弘 さん (42)

「物ごころついた時からはもちろん、就職後も家の手伝いはしていました。でも専業農家になってみたら思った以上に大変だと気付きました。」と渡部さん。
長年務めた会社を辞めて新規就農したのは10年前。
最初の年は育苗方法を変えたことで失敗。
今でもその年が一番大変だった、と苦笑いをします。
昨年には11〜12名で青年部を立ちあげ、失敗をわかちあえる仲間もできました。

「会津は本当にいい米ができる土地だと思います。だけど、農家を辞める人が増えればその米を作ることもできなくなります。最低でもこの田んぼを維持していきたい。」
農家離れが進む中、自ら就農したことで気付いたこと。
会津の米処を守るには農家を守らなくてはいけないということ。
渡部さんのところでは年々預かる田んぼが増え、農家数の減少に危機感を高めているそう。

「米作りは奥が深いですね。その分おもしろいと思うのです。反面、会津米を維持するためには田んぼの集約も必要になってくるでしょうね。」
田んぼは一年作らなければ荒れてしまい、戻すのが大変になります。
会津盆地に広がる田んぼの風景を守ることが若手農家さんの使命かもしれません。
会津の先を考える渡部さんに期待がかかります。

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「昔は見渡す限り田んぼばかりでした」と自宅の周辺で。

誰が食べても美味しい米を。
コシヒカリは会津のブランド。

若手米農家

渡辺 直也 さん (40)

「人のまねをするのが嫌いで、失敗もいろいろしました。でも、一度も2等米を出したことはありません。」
米だけで16町歩もの広さを栽培する、就農16年目の渡辺さん。
「就農した時はまわりに若手農家なんていなくて頼りは親だけ。他の人の田んぼを見てまわるのが何より勉強になりました。」
その中で学んだのは目先のことで惑わされないこと。
そしてチャレンジするなら根本から考えること。
その結果は周辺の農家さんが田んぼを任せたい、とお願いに来るほどの信頼になったようです。

16町歩の一部で飼料米とヒトメボレを作っているものの、そのほとんどがコシヒカリ。
収穫量の半分を個人に販売しているというから驚きです。
「震災後は販売に苦労しました。そのおかげで売るための工夫をするようになったのです。今は健康志向に振り回されず、どんな人が食べても美味しい米作りを意識しています。」
食べる人の声が聞こえるからこそ、どう作りどう売るべきかを根本から考えたそうです。

「付加価値をつけることは大事ですね。有機栽培や無化学無農薬栽培にも興味があります。」
会津盆地をなだらかに見下ろす地で、会津ブランドを真剣に考える。
そんな渡辺さんはこれから目が離せない農家さんの一人です。

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「田んぼを見るのが何よりも楽しい」と渡辺さん